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概要
『原論』(Stoicheia)は、紀元前300年ごろアレクサンドリアで活動したユークリッドが著した全13巻の数学書である。点・線・面といった基本概念の定義、公準と公理、そしてそこから導かれる命題という構造を取る。
扱う内容は平面幾何、比例論、数論、立体幾何、無理数論など、当時知られていた数学の総体に及ぶ。聖書に次いで印刷回数の多い書物とされ、20世紀に至るまで初等教育の基幹テキストであり続けた。
経過
ユークリッドの業績の核心は、個々の定理ではなく編成の仕方にある。5つの公準と5つの公理を出発点とし、そこから465の命題を厳密に導く。各命題は直前までに証明された命題のみを用いて証明される。
第1巻第47命題はピタゴラスの定理の証明である。第5巻の比例論はエウドクソスの業績を整理したもので、無理数を扱うための基礎となった。第7巻から第9巻は整数論で、素数の無限性証明が含まれる。第10巻は通約不可能量を扱い、第11巻から13巻で立体図形と正多面体に至る。
第5公準(平行線公準)は他の公準に比べて自明性に乏しく、2000年にわたり証明の試みが続いた。19世紀のロバチェフスキー、ボヤイ、リーマンによる非ユークリッド幾何学の発見は、この公準を否定することから生まれた。
意義
『原論』は数学書であると同時に、演繹的体系そのもののモデルを提供した。スピノザ『エチカ』が幾何学的秩序で書かれ、ニュートン『プリンキピア』が命題・証明の形式を取ったのは、この書の影響である。
合理主義哲学、近代自然科学、法学体系論に至るまで、前提から必然的帰結を導くという知の様式は『原論』を範とした。
現代への示唆
公理を明示することの価値
組織の意思決定や戦略立案は、しばしば暗黙の前提に支配される。ユークリッドが示したのは、議論の前提を数個の命題に明示的に還元することの力である。戦略会議で前提条件を書き出す作業は、地味に見えて最も知的に高密度な工程となる。
論理の連鎖による正当化
個々の結論を単発で示すのではなく、既証明の命題のみに依拠して次を導く姿勢は、エンジニアリング文書・監査・立法の基本態度と重なる。飛躍のない積み上げが、後続者による検証と再利用を可能にする。
前提を疑う力
平行線公準への2000年の格闘が非ユークリッド幾何を生んだように、長く自明とされてきた前提を疑うことが革新の契機となる。事業の根本仮定は何か、それを否定したら何が見えるかという問いは、戦略転換の出発点である。
関連する概念
- 公理系
- 演繹法
- 非ユークリッド幾何学
- ピタゴラスの定理
- プリンキピア
参考
- 原典:ユークリッド『原論』(中村幸四郎他訳、共立出版、1971)
- トマス・ヒース『ユークリッド原論の13巻』Dover, 1956
- 斎藤憲『ユークリッド『原論』とは何か』岩波科学ライブラリー、2008