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概要
唐(とう、618〜907年)は、隋を継いで中国を統一した大帝国である。首都長安は人口百万に達し、当時の世界で最も国際的な都市だった。東アジア文化圏(漢字、律令、仏教、儒教)の基本形はこの時期に確立する。
日本の平城京・平安京は長安を模倣して設計された。
経過
建国者・高祖李淵の後、太宗李世民の「貞観の治」(627〜649)で国家体制が整う。律令制、均田制、府兵制、科挙が並行して運用され、実力主義的な官僚登用が制度化された。
玄宗の「開元の治」(712〜741)で唐は最盛期を迎える。長安には西域のソグド商人、ペルシア系難民、アラブの使節、日本の遣唐使、新羅人、ベトナム人が集い、ゾロアスター教寺院、ネストリウス派教会(景教)、マニ教寺院、イスラム教モスクが並び立った。
755年の安史の乱で国家は傾き、以後は藩鎮(地方軍閥)の割拠が進む。907年、朱全忠により滅亡。
背景・影響
唐の国際主義は、北朝の鮮卑系軍事貴族を母体とする王朝の出自に由来する。皇室自体が漢人と遊牧民の混血であり、民族的純粋性への執着が薄かった。
科挙は家柄に縛られない人材登用の仕組みであり、官僚制の原型として後の宋・明・清、さらに朝鮮・ベトナム・日本の官僚制度にも影響を与えた。
玄奘のインド求法、鑑真の日本渡海、阿倍仲麻呂の長安仕官など、人の移動が文化の厚みを生んだ。
現代への示唆
開放性が繁栄を生む
唐の強さは純粋性ではなく混交性にあった。外来の血、外来の宗教、外来の技術を取り込み続けた組織は、内に閉じた組織より強い。
実力主義インフラ
科挙は「誰が選ばれるか」ではなく「どう選ばれるか」を制度化した。人材登用ルールが公正であることが、王朝の正統性を支えた。
多様性の臨界点
安史の乱の背景には、ソグド系の安禄山を重用しすぎた玄宗の人事があった。多様性は管理されなければリスクにもなる——開放と統治のバランスこそが難題である。
関連する概念
- 長安
- 科挙
- 律令制
- シルクロード
- 遣唐使
参考
- 『隋唐帝国』
- 『長安の春』