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概要
大正デモクラシー(Taishō Democracy)は、1910年代から1920年代にかけて日本で展開された、自由主義・民主主義的な政治文化の総称である。政治学者・吉野作造の「民本主義」に象徴される思想潮流と、政党政治・普通選挙運動・労働運動・婦人運動などの社会運動が相まって、短い期間だが日本に民主主義的可能性が開花した時代である。
起点は1912年の第一次護憲運動、終点は1932年の五・一五事件による政党内閣の終焉、というのが一般的な区分である。
経過
1912年、桂太郎内閣に対する第一次護憲運動(「閥族打破・憲政擁護」)が展開され、翌1913年に桂内閣は総辞職に追い込まれた。民衆運動が時の内閣を倒した初の事例だった。
1918年の米騒動を経て、平民宰相・原敬による初の本格的政党内閣が発足。第一次世界大戦後の国際的な民主化潮流を背景に、1919年の衆議院議員選挙法改正、1925年の男子普通選挙法成立へと進んだ。
1924年の第二次護憲運動を経て、1932年まで憲政の常道(衆議院の第一党党首が首相となる慣行)が定着した。
文化・思想面では、吉野作造の『中央公論』連載(1916)で民本主義が定式化され、美濃部達吉の天皇機関説も大きな影響を与えた。普通選挙運動・労働運動・婦人運動・部落解放運動・社会主義運動が広がり、『改造』『我等』などの論壇誌が隆盛した。
しかし1925年の治安維持法、1929年の昭和恐慌、1931年の満州事変、1932年の五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されたことを契機に、政党内閣は終わり、軍部と官僚主導の体制へと移行した。
背景・影響
大正デモクラシーを可能にしたのは、第一次世界大戦による経済繁栄、世界的な民主主義潮流、教育普及による中間層の拡大、都市化とマスメディアの発達などである。
しかし基盤は脆弱だった。普通選挙が実現した同年に治安維持法が制定され、政治の民主化と思想の統制が同時進行した。元老・軍部・官僚・宮中といった「非選挙的権力」が温存されたまま、政党政治が接ぎ木された構造だった。
この経験は戦後の日本国憲法下での民主主義に教訓を残した。形式的制度だけでなく、民主主義を支える制度文化・メディア・市民社会の厚みが必要であること、経済危機が政治的極端主義を生みやすいこと——これらは現代の民主主義にも共通する課題である。
現代への示唆
制度と文化は別々に育つ
普通選挙法という制度が整っても、運用する政治文化が未成熟なら形骸化する。ルール導入だけでは組織は変わらない、という経営上の教訓に重なる。
「全体主義的制度」と「民主的制度」の並存は長続きしない
治安維持法と普通選挙法が同居した時代は、どちらかに傾く圧力を内包していた。自由と統制のバランスは、不安定な均衡である。
経済不安が政治潮流を反転させる
昭和恐慌が大正デモクラシーを終わらせた。経済的安定は、民主的価値観を維持するための土壌である。
関連する概念
- 民本主義
- 普通選挙法
- 治安維持法
- 政党内閣
- 五・一五事件