歴史 2026.04.14

プラザ合意

1985年、先進5カ国がドル安誘導で合意。日本のバブル経済と産業空洞化の起点となった。

Contents

概要

プラザ合意(Plaza Accord)は、1985年にG5(米・日・西独・英・仏)が為替市場への協調介入でドル安誘導することで合意した国際合意である。

戦後ブレトン・ウッズ体制崩壊以降、為替を政治的に動かした最大の国際協調であり、その後の日本経済を規定する転換点となった。

経過

1985年当時、レーガン政権下の米国は高金利によるドル高と双子の赤字(財政・貿易)に苦しんでいた。特に対日貿易赤字は米国内で政治問題化し、保護主義が高まっていた。

9月22日、プラザホテルでの会議は非公開で行われ、声明発表後、わずか数日で円相場は1ドル240円台から210円台に急伸。翌1986年末には160円、87年末には120円台となった。

日銀は急激な円高不況に対応して公定歩合を連続引き下げ(2.5%まで低下)、市場に大量の資金が供給された。これが株式・不動産市場への資金流入を招き、88〜89年のバブル景気へとつながる。

背景・影響

プラザ合意は、米国の政治的要請に日本が応じる形で成立した。日本側にも、米国との貿易摩擦を為替で緩和したいという事情があった。

短期的には円高不況を引き起こしたが、それ以上に大きな副作用は、超低金利の長期化がバブルを招いたことである。また、円高による製造業の海外移転(産業空洞化)は、この時期に本格化した。

一方で、円高は日本企業の海外企業買収を容易にし、ソニーのコロンビア買収、三菱地所のロックフェラーセンター買収など、「ジャパンマネー」が世界市場を席巻する象徴的シーンも生まれた。

現代への示唆

国際交渉では「合意の代償」を見落とす

プラザ合意の表面は「為替の適正化」だったが、実質は日本経済の構造変更だった。合意の文面より、その帰結を想定する能力が交渉の要諦となる。

金融緩和の副作用は遅れて来る

円高不況への対症療法が、3年後のバブルを生んだ。短期的な痛み止めが、長期的には別種の病を呼ぶことがある。

為替は企業戦略の前提条件である

一晩で通貨価値が3割変わる世界では、製造拠点の分散・為替ヘッジが経営の基礎となる。単一通貨・単一拠点の想定はすでに危険である。

関連する概念

  • 円高
  • バブル経済
  • 産業空洞化
  • 日米貿易摩擦

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