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概要
マルチチュード(multitude、群衆・多数性)は、アントニオ・ネグリ(Antonio Negri、1933-2023)と マイケル・ハート(Michael Hardt、1960-)が共著『〈帝国〉』(Empire、2000)および続編『マルチチュード』(2004)で提示した現代政治哲学の鍵概念。
日本語版は以倉敬之・水嶋一憲訳で以文社/NHK ブックスから刊行。
ネグリはイタリアのオペライズモ運動出身の政治哲学者で、1970 年代「赤い旅団」事件に関与して投獄された経歴を持つ。ハートはデューク大学教授。
グローバル化・ポスト冷戦期の新しい主権形態「〈帝国〉」に対抗する新しい主体として、マルチチュードが構想された。
中身——〈帝国〉とマルチチュード
1. 〈帝国〉(Empire)
かつての帝国主義が国民国家間の権力闘争だったのに対し、現代の 〈帝国〉は中心なきネットワーク型の主権である。
- 国連・IMF・WTO・G7 などの国際機関
- 多国籍企業、金融市場
- メディア、情報ネットワーク
これらが脱中心的に地球全体を管理するのが〈帝国〉である。
2. マルチチュードの定義
〈帝国〉に対抗する主体は、従来の「人民」(国民国家に対応)でも「労働者階級」(産業資本に対応)でもない。
マルチチュードは:
- 差異を保ったまま共闘する — 統一されない多数性
- ネットワーク型 — ヒエラルキーのない水平的結合
- 非物質的労働に基盤 — 知識、コミュニケーション、情動労働
3. 非物質的労働(immaterial labor)
ポストフォーディズムの労働形態:
- 認知労働 — プログラミング、デザイン、研究
- 情動労働 — ケア、接客、教育
- コミュニケーション労働 — SNS、マーケティング
これらは生活と労働の境界を溶かす(生政治的労働)。
4. コモン(the common)
マルチチュードが生み出し共有する富——知識、言語、情動、都市空間、自然。私的所有でも国有でもない第三の領域として、コモンの再獲得が解放の鍵とされる。
中心思想——差異のまま共に
ルソー以来の近代政治思想は「人民」を単一の意志に統合することで正統性を得た。だがネグリ&ハートは問う:
「単一にならずに、多様なままで共闘できないか。」
これが「差異の民主主義」というマルチチュードの理念である。Occupy Wall Street、アラブの春、SNS 時代の抗議運動——リーダー不在・水平・多声的な運動の思想的基盤となった。
論点と批判
- 楽観主義 — マルチチュードの解放可能性への過信
- 主体の曖昧さ — 誰がマルチチュードか特定できない
- 組織論の不在 — ネットワーク運動の持続力の弱さ
- 右派ポピュリズムとの区別 — 反グローバリズムを右派も掲げる
それでも、国民国家と階級闘争を超えた政治主体の構想として、21 世紀の社会運動論に不可欠な参照点となっている。
現代への示唆
1. グローバル時代の新しい主体
従業員も顧客もマルチチュード的である——国籍・性別・世代・価値観が多様なまま協働する。画一化ではなく差異を保ったまま共通目標に向かう組織設計が、グローバル企業の課題となる。
2. 非物質的労働のマネジメント
知識・情動・コミュニケーションが価値の源泉になった今、労働時間では測れない創造性・関係性をどう評価・報酬するかが経営課題である。OKR、心理的安全性、エンプロイー・エクスペリエンスは、この流れの中にある。
3. コモンとプラットフォーム
オープンソース、ウィキペディア、Linux——コモン型の生産はすでに資本主義の隣で巨大な富を生んでいる。企業は私有と共有のハイブリッド戦略(オープン・イノベーション、コミュニティ運営)を設計する必要がある。
関連する概念
〈帝国〉 / コモン / 非物質的労働 / オペライズモ / [加速主義]( / articles / accelerationism) / [監視資本主義]( / articles / surveillance-capitalism)
参考
- 原典: アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『〈帝国〉——グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(水嶋一憲ほか 訳、以文社、2003)
- 原典: ネグリ/ハート『マルチチュード——〈帝国〉時代の戦争と民主主義』上・下(幾島幸子 訳、NHKブックス、2005)
- 原典: ネグリ/ハート『コモンウェルス——〈帝国〉を超える革命論』上・下(水嶋一憲ほか 訳、NHKブックス、2012)