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「提案しても、どうせ通らない」という空気
中堅メーカーの若手社員に、会社についての本音を聞いたことがある。最も印象に残ったのは、次の一言だった。
「うちは、何を言っても変わらないんですよ。だから、もう何も言わないんです」
彼は怠惰ではなかった。入社時は、業務改善のアイデアを積極的に上げていた。しかし、上司から「前例がない」「リスクが読めない」「今はそのタイミングじゃない」と返されるうちに、提案すること自体をやめた。
彼の表情には、怒りも悲しみもなかった。ただ、どうしようもないことを受け入れた顔があった。
この顔を、1960年代後半、ペンシルベニア大学の心理学者マーティン・セリグマンは、実験室の犬に見ていた。
セリグマンの犬——逃げられない経験が、逃げる能力を奪う
1967年、セリグマンとスティーブン・マイヤーは、ある実験を行った。
第一段階で、犬を三つのグループに分けた。一群は何もしない対照群。もう一群は、電気刺激を受けるが、パネルを押せば自分で止められる。最後の一群は、電気刺激を受けるが、何をしても止められない。刺激の物理量は、二群目と三群目で完全に同じだ。違いは、自分のコントロールが効くかどうか、だけ。
翌日、すべての犬を別の装置に入れた。その装置は、低い壁を飛び越えれば、簡単に電気刺激から逃げられる設計になっていた。
対照群と「止められた群」の犬は、壁を飛び越えて逃げた。ところが、「止められなかった群」の犬は、逃げる構造があるにもかかわらず、その場にうずくまり、電気刺激を受け続けた。
この現象が、学習性無力感と名付けられた。何をしても結果が変わらない経験を繰り返すと、生物は「何をしても無駄だ」という認知を獲得する。そして、状況が変わっても、試みる行為そのものが止まる。
重要なのは、これが学習されたということだ。元々無気力だったのではない。経験から学んだのだ。
アナロジー——「なぜなぜ」が「誰が」になった瞬間
この犬の話は、現代の組織で毎日、微小に再生産されている。
メンバーが新しい提案をした。上司は「リスクが読めない」と却下した。もう一度、別の角度から提案した。「前例がない」と却下された。さらに、根回しもした上で提案した。「タイミングが悪い」と却下された。
三回目が終わったとき、メンバーの脳内では、セリグマンの犬と同じ学習が起きている。「自分の行動と結果の間に、因果がない」という認知が定着する。
さらに深刻なのは、失敗を「誰が」で追及する文化だ。
トヨタの「なぜなぜ分析」は、本来プロセスの構造欠陥を突き止めるための手法だ。しかし運用を誤ると、「なぜ」が「誰が」にすり替わる。なぜ遅れたのか、誰が遅らせたのか。なぜ失敗したのか、誰の責任なのか。
この瞬間から、組織の情報流通は止まる。メンバーは、失敗を隠し、リスクを取らず、余計なことを言わなくなる。結果として、組織の学習速度はゼロに近づく。
失敗の3類型——エドモンドソンの識別力
ハーバード・ビジネス・スクールのエイミー・エドモンドソンは、失敗を次の3つに分類した。
予防可能な失敗——定型作業での手順逸脱。これは責められて当然だが、頻度は低い。
複雑さによる失敗——システムの不確実性から生じる、予測しきれない失敗。責めても再発防止にならない。構造の改善が必要だ。
知的な失敗——未知の領域への挑戦の結果。新規事業、新市場、新技術の試行。これは組織の資産であり、歓迎されるべきものだ。
多くの組織の問題は、この3つを区別せず、すべてを一律に責めることにある。特に3つ目の知的な失敗を責めた瞬間、挑戦の芽は完全に枯れる。
セリグマンの犬が教えるのは、組織が「挑戦しても無駄」を学習するのに、それほど多くの経験は要らない、ということだ。数回の却下、数回の叱責、数回の冷たい沈黙で、人は試みることをやめる。
失敗を学習に変える4つの設計
では、リーダーはどう失敗を扱えばいいのか。
1. 失敗の報告を、3類型に分類してから反応する
報告を受けた瞬間、脊髄反射で反応せず、「これはどの種類の失敗か」を識別する。手順違反か、構造欠陥か、挑戦の結果か。種類によって、望ましい反応は全く異なる。
2. 「なぜ」を主語「それ」で尋ねる
「なぜあなたは失敗したのか」ではなく、「なぜそれは起きたのか」。主語を人から出来事に移すだけで、議論はプロセスの改善に向かう。トヨタの「なぜなぜ」が機能するのは、この主語の使い方ができているときだけだ。
3. 知的な失敗を、事例として共有する
挑戦して失敗した事例を、組織内で定期的に共有する場を設ける。責任者を晒すのではなく、学びを抽出する場だ。失敗が「恥」ではなく「貢献」になると、挑戦は増える。
4. 小さな「できた」を積み重ねる
無力感を解消する最も確実な方法は、自分の行動と結果の因果を取り戻す経験を積むことだ。大きな成果でなくていい。小さな改善提案が、小さく採用される。その連鎖が、学習性無力感の逆、「学習性有能感」を育てる。
あなたの組織で、最後に却下された提案はいつか
経営者は、自分の組織について、次の問いを持ってほしい。
ここ3ヶ月で、現場からあなたに上がってきた提案のうち、却下したものは何件か。そして、却下するときに、どんな言葉を使ったか。
「前例がない」「リスクが読めない」「タイミングが悪い」——これらの言葉は、一度ずつは正しい判断かもしれない。しかし繰り返されたとき、相手の脳内では、セリグマンの犬と同じ学習が進行している。
提案が上がってこなくなった組織は、従順な組織ではない。学習を止めた組織だ。
あなたの組織は、挑戦することを学んでいるだろうか、それとも、挑戦しないことを学んでいるだろうか。
著者
道家俊輔
株式会社ギアソリューションズ。歴史・哲学・宗教のアナロジーから、現代ビジネスリーダーの意思決定を考察。