Contents
概要
本田宗一郎は、1948年に本田技研工業を設立し、二輪車・四輪車・F1・ジェット機に至るモビリティ事業を世界規模で展開させた技術者・経営者である。
ソニーの井深大と並び、戦後日本の技術系ベンチャー起業家の原型となった。技術への情熱と、型破りな経営スタイルで知られる。
経過
1906年静岡県生まれ。高等小学校卒業後、東京の自動車修理工場で丁稚奉公。28歳で浜松に独立し、ピストンリング製造からキャリアを始めた。
戦後の1946年、自転車補助エンジンの製造で本田技術研究所を創業。49年に藤沢武夫を招き、以後経営と技術で役割分担。59年には米国進出、ドリーム・スーパーカブが大ヒットした。
1961年、英マン島TTレースで初優勝、64年F1参戦。1972年、低公害エンジンCVCCで米国の厳しい排ガス規制(マスキー法)を世界で最初にクリアし、世界の自動車産業に衝撃を与えた。73年社長退任、91年没。
背景・影響
本田の戦略の核には、徹底した「技術での差別化」と「レースによる鍛錬」があった。市場の声より、「世界一の技術」を目指すことが結果的に市場を作る、という信念である。
藤沢武夫との関係も象徴的だ。本田が技術と現場を担い、藤沢が財務・販売・人事を担う。両者は社長・副社長の名目を離れ、完全な二人三脚で経営した。
米国市場への進出戦略は、ハーバード大の研究で「創発的戦略」の古典事例として分析された。大型バイクで失敗した後、本社が想定していなかった小型スーパーカブが米国で爆発的に売れ、市場を開拓したのである。
現代への示唆
創業者には補完的パートナーが必要
本田の技術志向は藤沢の経営管理なしには暴走した。創業者は自分にない能力を持つパートナーを得ることで、初めて組織として機能する。
計画より現場の発見を信じる
米国市場でスーパーカブが売れた理由は、本社の計画ではなく現場社員の偶然の観察だった。戦略は計画通りに実現されるより、実行中の発見から書き換えられる。
敗北は技術の母である
F1参戦も当初は連戦連敗だった。しかしその経験が低公害エンジン開発の基礎技術に結実した。失敗への投資が、競合が真似できない資産となる。
関連する概念
- 藤沢武夫
- スーパーカブ
- CVCCエンジン
- 創発的戦略